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Pon's diary

北海道にある某高等専門学校から大阪大学に編入学し、今は大学院生をしています。大学では物性理論を専攻しています。このブログは私が日々の生活、学びの中で感じたことをただ書き留めるためのものです。内容は主に科学関連の事になると思います。未熟な私のことですので生産性と信憑性の両方を欠いたものになると思います。それでもよければどうぞゆっくりしていってください。

身も心も捧げるに足る対象

時々、「私は何のために生きているのか。」ということに考えることがあります。

 

思い返すと、その事を考えるときというのは精神的に病んでいるときが多かったように感じます。精神的に病んでいるというというのは、自分を魅せ、没頭するに足る対象が外部にないということと対応付けられると思います。そのような対象に向かう時間が無い場合もあるでしょう。

 

多くの人は外部から与えられた仕事に没頭しています。そのような中で病んでしまう人は大勢います。それは与えられた仕事に対して魅力を感じないからではないでしょうか。逆に自分を魅せる対象がないために、絶望してしまっている人も多いでしょう。

 

自分の生きる目的、幸福とは次のように言えるのではないかと思います。

 

「身も心をも捧げるに足る対象に出会い、努めること。」

 

芸術でもスポーツでも恋人でも良いのですが、このような出会いと努めがあることが私の生きる理由です。

徹夜明けに幸福を感じ、以上のようなことを思った次第です笑

 

身も心も物理に捧げる。

朝に道を聞かば、夕べに死すともかなり。(孔子)

旧友との電話

久しぶりに高専時代の友人の一人から電話がありました。

 

優しく、ひたむきなところは変わらないなと思いつつ、彼の話を楽しく聞くことができました。

 

彼は高専を卒業した後すぐに就職しました。それから一年間社会で働いてみて、自分の生き方を見つめなおしたといいます。これから大学院に進学するのだと話していました。

 

退職の理由も優しい彼らしく、進学を決意した理由も前向きで聡明な彼らしいものだと感じました。(詳しくは書くことはできませんが。)

 

彼の素敵な個性は変わらないままでしたが、彼の一言一言が以前にまして深みを増しているように思えます。卒業してから様々な経験があったのでしょう。彼の中の変化が垣間見え、とても嬉しかったです。

 

時の流れの中で変化はあるものです。その中で、私の愛したものが変わらないでいてくれたということはとても励みになりました。

 

互いに一層の成長と幸せを。

また、お話しましょう笑

 

ランダウ=リフシッツを読んで思ったこと

1週間ほどをかけて名著と名高いランダウ著の力学を読んでみました。

 

読み始めた理由は数年前に買ってずっと家に積読してあるのが気に入らなかったということと、量子論を作る1つの方法である正準量子化の重要性を認識するにつれて、正準変数の理論に対する理解を深めたいと感じたことにあります。今回は実際に読んでみて感じたこと、私が物理の本を読む上で心がけていることを書こうと思います。

 

まず、ランダウの力学が他の教科書とどの点が異なるかという点についてです。第一は物理の理論を構成するに当たってはじめに課される要請(数学で言うところの公理)になります。物理はあくまで経験科学ですので、多くの場合、直感的に受け入れやすい普遍的な経験を要請に据えることが多いと思います。

 

例えば、私の大好きな原島鮮先生の力学の本であれば次のような具合です。

 

・物体の位置を特徴づける座標変数と絶対時間の存在

→座標変数の時間の導関数として速度と加速度が自動的に導入される。

 

・孤立した質点は等速度運動をする(慣性の法則)

 

・二つの物体を近づけると加速度の比は一定になるということ。

→この逆比をもって質量の比を定義し、速度の変化を特徴づけるベクトル量として力を定義する。 

 

こうして運動方程式が導入され、個々の具体的な場合について適用していく。

 

といった具合で力学の理論的な枠組みが導入されています。

 

これらの方法は直感的にもわかりやすく、概ね歴史に沿ったものになります。しかし、はじめに登場した理論が自然の本質を完璧に捉えているというのは本当に稀なことです。歴史に沿った、直感に訴える説明の多くはどうしてもその適用限界にぶつかり、その都度修正しなければなりません。自然とはそれほど簡単なものではないのでそれは当然のことだと思います。これまでもこれからも、このようなトライ・アンド・エラーの繰り返しで自然は明らかにされていくのでしょう。しかし、こうして導入された「不完全」な理論の枠組みは、議論が進むに連れて修正され、「一体何が本質なのか」がかえってわかりにくくなるものです。(熱力学が高級な演算を必要としない割に、理解が進まないのはこういった理由が多いように思います。)

 

一方で、ランダウの力学教科書においてはじめに課される要請は次のようなものです。

 

・物体の位置を特徴づける座標変数と絶対時間の存在

 

力学系を特徴づける座標変数と速度の関数である、ラグランジアンという量の存在。

 

・物体の運動は最小作用原理という変分原理で決定される。

 

・慣性基準系の存在とガリレオの相対性原理

 

になります。この4個の要請は一見複雑ですが、この4個からほとんど修正を加えることなしに、力学の理論が完成します。この本のすごいところはわずか30ページで力学のすべてをまとめ上げているところにあると思います。(いわゆるラグランジュ形式で)

 

これらの要請に力学の創始者がはじめから至っていたということはありませんが、これが力学の本質なのでしょう。それから、具体的な場合についてを3、4、5、6章で述べています。どの章も簡潔、明快で素晴らしい説明になっています。7章で力学理論の別の定式化について論じています。(この章も素晴らしい!!)

 

この二冊の違いは、ちょうど「地図を持たない登山」に例えられると思います。原島鮮先生の本は登山、ランダウの力学は下山と言った具合でしょうか。

 

原島鮮先生の本からは力学理論の内容、先人たちがどのように苦心して力学理論を構成したかを学ぶことができます。

ランダウの本からは力学理論にどれほどの美しさ、どれだけの汎用性を持たせることができるのか、という哲学を感じます。

 

ランダウの理論展開はさながら、山頂から世界全体を見下ろし良い道と素敵な景色を味わいながら優雅に山を降りているような感覚です。

 

私は物理を学ぶものとしてはどちらの流儀の教科書も読むべきだと思います。

 

というものも、我々が研究の対象とする物は完全な理論がまだ出てきていないものになりますから、原島鮮先生の本のような「泥臭く」物理を構成していくことが求められます。しかし、ランダウのように物理の理論はシンプルに、そして可能な限りの汎用性を持つべきだというのもまた多くの物理学者が共通して持っている哲学ではないでしょうか。

 

ランダウや清水明先生の書籍からは「自然を記述する理論はこうあるべき」という哲学を感じます。

 

多くをお教えいただきありがとうございます。

好きなものだけに囲まれた生活

最近「人生がときめく片づけの魔法」という本を読み、私の世界が変わりました。

 

この本には、「片づけとは家にあるすべてのものに住所を定めること」、「手にとってときめかないものは捨てるべし」、「一度、完璧に片づくともう散らからない」といった主張がされています。これらの主張は私の片づけに対する認識を根本的に変えました。そして、書かれている内容を実際に実践することで、私の世界は色づき始めました。

 

今は散らかることのない片づいた部屋の中で、私の好きなものにだけ囲まれた生活を送っています。

 

朝起きると、ショパンをながし、紅茶を入れて一服。それから洗濯機を回し、その間に食事の用意をします。その日の所用を済ますと、机に向かい大好きな物理の本や論文を読みます。

 

そういう幸せな生活を送っていると、「世界は自分にいつも優しかった」とも思うようになるわけで。人や物に優しくなれます。ものに優しくしていると、物はいつまでも綺麗なままで、私の好きな姿のままでいてくれます。人に優しくしていると、一層リスペクトされます。

 

人は生活習慣を変えるだけで、その内面も変わることができるものなのだと私は知りました。 

科学を進めるのに数学は必要か??

私は大学で物理学を専攻しています。 

それも実験的内容というよりも理論的内容に関心があり、物性理論に関する研究をしています。

そうすると、場の理論固体物理に関する専門書や論文を読み過ごす時間が生活の大部分を占めます。

 

そういった生活を送っていると、専門書や論文に出てくるたった一つの数式が導けずに頭を抱えることがしばしばあります。当然、それ以上理解が進まなくなるのだから面白くありません。その数式の物理的な意味を理解することは出来ても数式が導けないとなるとなると、更にたちが悪い。

 

この場合には私にとっての問題は物理ではなく「数学」となります。

 

私は数学が好きではありません。なので数学書を読むことも殆どありません。数学書に出てくる数式には物理的な実態がないので、数式を現象と関連付けて頭に入れている私にはなかなか定着しないし、面白みも物理ほどは感じないからです。 

 

しかしながら、このような問題をいつまでも抱えることは研究を進めるためには非効率的です。

 

数式を導けないことは、しばしば論点を科学から数学へと変えてしまいます。

計算に執着すると、物理的な考察を怠り本質を見落とすことに繋がることもあります。

 

さて、科学(今の場合主に理論的な研究を指す)を進めるのに数学は必要かという問題ですが。

 

この問題は

「英単語や熟語表現を知らないから、英語を読めない」

という問題によく似ています。

 

専門書を読み計算ばかりしていると、数学は科学者にとっての「言語」なのだと感じられます。言語を知らなければ人との意思疎通も出来ないし、日常生活を送るのも困難になってしまいます。そうなると社会の中に入って生活を営むのも困難になると言った具合です。 

 

科学を進める人にとっての共通言語として数学があると考えれば、数学は「それなりに」学ばなければならないのだろうと思います。

 

(要約:研究に支障を出さないために数学も勉強しようと思います。)

ブログを始めました。

こんにちは!

 

大阪大学で大学院生をしておりますポンといいます^^

 

このブログは私が日々の生活、学びの中で感じたことを書き記録するためのものです。

 

以前はあるSNSで上記ようなことをしていたのですが

 

・どうしても長文になってしまうこと

・投稿の中には多くの人には関心を持ってもらえないような内容があること(主に科学の話)

 

という事情があり、ブログを作成することにしました。

 

もし興味を持っていただける方がいれば、どうぞゆっくりしていってください^^